polca、VALU、Timebankから感じる「社会における個人の行動生起頻度を上げる」という挑戦
価値のないものに無理やり値段をつけて売りさばくサービス、情報教材的情弱ビジネスなどと揶揄されているサービス群ですが、解決したいと考えているであろう社会的な問題と解決方法は興味深く、時代の流れはこちらの方へ行くのではないのかなと感じています。これらのサービスは「社会における個人の行動生起頻度を上げる」という通底した特徴を持っていると考えられます。
・彼らが(私も)解決したいと考えているであろう社会的な問題
日本人は民度が低い、とかじゃなく、恋愛しないセックスしない、起業もしたくない、政治参加もしたくない、とにかく世界で一番何もしない人々になってしまったってことじゃないかな。ただ、挑戦してる人や頑張ってる人を冷笑嘲笑するのは超一流で、出る杭を打つのは世界最高、みたいな。日本ヤバイ
— とみ (@meow164) 2017年5月19日
というツイートがバズってるように「みんな何もしない」、言い換えると「社会における個人の行動生起頻度が低い」ことが社会的な問題なのではないでしょうか。
生きるってことは行動だってことを理解してる人はやっぱり強いな。転んでも何かを得てる。他人の失敗や挑戦に対して外野から論評して終わる人生も心地よいのかもしれないが、自分の人生ぐらいは自分が当事者であって欲しいね。
— Katsuaki Sato (佐藤航陽) (@ka2aki86) 2017年7月30日
メタップスの佐藤航陽さんもブログやTwitterで社会的閉塞感と行動の問題について度々触れられています。
「生産活動をうまく回す仕組み」を「経済システム」とここでは呼ぶことにして、大前提として自己発展的に拡大していくような仕組みである必要があります。誰か特定の人が必死に動き回っていないと崩壊するような仕組みは長くは続きません。
佐藤さんは「生産活動をうまく回す仕組み」を「経済システム」と仮定して呼んでいます。私は「生産活動をうまく回す仕組み」においては「個々人の生産活動の生起頻度を上げる」ことが重要であると考えます。
・現代日本において個人の行動生起頻度はなぜ低いのか、原因と解決策
主な原因として①インセンティブ不足、②既存のインセンティブが機能していない、③因果の記述に対する主観的な信頼度が低い、の3点が挙げられます。
①インセンティブ不足
富の偏在(高齢化による人口構成の問題)により若い人が積極的に働いていくための金銭的なインセンティブが不足しています。また市場で取引されにくい活動、例えば家事やボランティア、ゴミ拾いのような活動はもちろん金銭的なインセンティブが不足しています*1。このようなインセンティブ不足の問題に対してTimebankは若く才能のある人の方が価値のある「時間」を市場で取引することで才能のある若い人が資産を築き行動のインセンティブとなるようなシステムの構築を目指しています。polcaは従来では金銭的なインセンティブがなかったような小規模な企画や個人の活動に対して個人が少額融資をすることでインセンティブを作り出し、なめらかに行動が立ち上がる社会*2を目指すシステムと言えるのではないでしょうか。
その他には身も蓋もありませんが景気が良くなれば使えるお金の量も増えるので行動の生起頻度も上がるでしょう。
②既存のインセンティブ設計が機能していない
何がインセンティブと成りうるかは個体差がある上に、個体内でも時と場合により価値が変動します。実際にその人にとって何がインセンティブとして機能するかは帰納的に模索され、将来的には個々人にオーダーメイドのインセンティブが付加されて行動が立ち上がる世界が到来するのではないでしょうか。このためには多様なインセンティブ設計が必要です。しかし現状では社会には多様性のある複数のインセンティブ設計が存在するとは言えません。「複数のインセンティブ設計が並立する世界」と佐藤航洋さんが提唱されている「複数の経済の中から自分に合ったシステムを選べる世界」を目指すという考えはかなり近いように感じます。
よく誤解されるけど評価経済を作りたいわけでは1ミリも無いんだよな…興味もない。時間の価値を見直す事と、並行する経済を何個も作って経済を選べるようにしたいだけ。その意味では既存の仕組みもそのまま稼働してて欲しいと思ってる。代替する意味は薄い。
— Katsuaki Sato (佐藤航陽) (@ka2aki86) 2017年9月21日
VALUにしてもTimebank にしても現時点では既存の貨幣(またはビットコインのような貨幣的なもの)によって時間や個人の価値、個人の行動を重み付けしています。それだけ貨幣のインセンティブ機能が強力であるということでしょう。
貨幣的なもの以外を使用してインセンティブを設計すること(行動を制御すること)は可能でしょうか?中国のように信用情報を活用し人々に適正な行動を生起させたり、VRやAR*3を使ってそこに実際にあると錯覚させることにより行動を生起させるというインターネットのアーキテクチャによるインセンティブ設計が大きな可能性として存在しています。
貨幣や信用やデザインなどにより複数のインセンティブ設計(行動を制御するシステム)が存在する世界になれば、インセンティブの個体差や個体内での変化にも対応できるようになります。言い換えるとオーダーメイドのインセンティブを提供できるようになります。
③因果の記述に対する主観的な信頼度が低い*4
因果の記述とは「AするとBになる」ということです。例えば「毎日3時間勉強すれば志望校に受かる」や「この厳しい練習に耐え抜けば試合に勝てる」「この仕事を続ければ業績はもっと良くなる」「今日頑張れば明日はもっと良くなる*5」などです。客観的にはどうあれ「AするとBになる」と強く思えるのであれば主観的な信頼度は高いと言えます。逆に「どうせ起業してもダメだ」「勉強しても意味がない」「仕事を頑張ったところで明日は今日より悪くなる」のような記述は因果に対する主観的な信頼度が低いと言えます。因果の記述に対する主観的な信頼度が高ければ結果はどうあれAという行動は生起しやすくなります。ではどうすれば因果の記述に対する主観的な信頼度を上げることができるのでしょうか?
「AするとBになった」という成功体験があることはおそらく次のチャレンジの成功(AするとBになるだろうという)に対する主観的な信頼度を上げることができるでしょう。またモデルケースが身近に存在することも主観的な信頼度を上げていると言えるのではないでしょうか。例えば「身近に難しい大学に受かる人が多ければ自分も受かると思うので勉強するという行動は生起しやすくなる(受かるとは言っていない)」や「すでに事業モデルがある、成功したケースがあると事業を立ち上げる行動が生起しやすくなる(成功するとは言っていない)」などです。後者については佐藤航陽さんがとても勇気の出る言葉で語られています。
実際は、過去の自分(のような人)に対して「事例」を示したかっただけでした。
先行事例が無いと人間は何かを信じるのがとても難しいんです。自分の未来を信じることができないことほど不幸なことは無いと思っています。
今までやってこれたのも、先行事例を作ってくれた人達が居てくれたからであって、どうしたら良いか解らない時もその「事例」こそが自分にとっての唯一の「希望」でした。
生まれたときからたくさんの可能性が用意されてる人もいるし、そうでも無い人もいます。ゲイツの言うように人生は公平では無いですし、現実の残酷さは否定できないんです。
それでも過去の自分のような人には「人生はこんなものだ、しかたないんだ」と言って欲しくなかったから、できるだけ難しい道を選んで「不可能なことなんてあり得ないし、人間は何者にだってなれるんだ」という事を証明したかったんだと思います。
きっと誰かに貰ったものを返したかっただけなんだろうと妙に納得できました。
それを思い出して、やっぱり『理想』は絶対に捨ててはいけないんだとまた思えるようになりました。
その他に考えられるのは原始的な方法ですが、「AすればBになる」という記述を何度も確認したり、復唱したりすることです。部活の強豪校が目標の張り紙をしたり、練習の合間に復唱したりするあれです。因果の記述に対する主観的な信頼度を上げる方法は他にもありそうです。もしあれば教えてください!
・まとめ
「社会における個人の行動生起頻度を上げる」という観点から社会の閉塞感を打破する方法を考えると今現在流行り始めているこれらのサービスの意味や今後必要なサービスについての見通しが立ちやすくなるのではないでしょうか。
*1)もちろん全ての活動が金銭によって動機付けされる必要はないが、専門的な職能や社会にとって必要な活動をボランティアでまかなおうとするのは如何なものか。
*2)家入一真(2017)なめらかなお金がめぐる社会。あるいは、なぜあなたは小さな経済圏で生きるべきなのか、ということ。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0747JS1HY/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
*3)ポケモンGOなどの位置情報ゲームはインセンティブを新たに空間に作り出すことによって既存の歩くという行動の意味を変えました。
「習慣」「継続」アシスト系アプリ5選〜「行動に新たな物語(機能)を加える」というアプローチ - 行動に影響を与える道具を考えたり作ったりしたい
*4)信念の形成のについて、詳しくは長谷川芳典先生のホームページへ
http://diary.hasep.net/13/08/01.htm
*5)おそらく日本以外のアジアの国々には明日は今日よりもっと良くなるという漠然とした感覚が共有されている。